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恵みの時代と神の国の時代では、神の働き方はどう違うのでしょうか。

参考聖書箇所

「悔い改めよ、天国は近づいた。」(マタイによる福音書 4:17)

「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。 わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書 12:47-48)

関連する神の言葉

最初の受肉の間、神が病人を癒し、悪霊を祓うことが必要だったのは、神の働きが、贖うことだったからである。全人類を贖うためには、神は憐れみをもって赦す必要があった。イエスが十字架につけられる前にした働きは、病者を癒やし、悪霊を祓うことだったが、これは、人間を罪と穢れから救うことを予め告げるものであった。これは恵みの時代だったため、イエスが病者を癒やし、しるしや不思議を示す必要があった。これがその時代の恵みを表すものであった。恵みの時代が、人々のイエスへの信仰の象徴である平和と喜び、物質的幸いに象徴される恵みを施すことを中心としていたためである。これはつまり、病者を癒し、悪霊を祓い、恵みを与えることが、恵みの時代のイエスの肉に生まれながらに備わった能力だったということで、それが肉において霊が実現した働きであったのだ。 「神の宿る肉の本質」より

恵みの時代では、イエスは病人を癒したり、悪霊を追い出したり、人の上に手を置いて祈ったり祝福したりといった働きを多く行なった。しかし、現在ではそのようなことをするのは無意味であろう。聖霊は当時そのように働いた。それは恵みの時代であったからで、人が享受するのに十分の恵みがあった。人はいかなる代価を支払うことを要求されることもなく、信仰がある限り、恵みを受け取ることができた。すべての人たちは非常に寛大に扱われた。今、時代が変わり、神の働きがさらに前進した。神の刑罰と裁きを通して、人の反抗的態度や、人の中の汚れたものは取り除かれるだろう。当時は贖いの段階であったので、神は人が楽しむのに十分な恵みを示して、人が罪から贖われ、恵みによって罪が赦されるように働きを行なわなければならなかった。現在の段階は、刑罰、裁き、言葉による打ち砕かれ、そして言葉による懲戒と暴露を通して、人の中の不義を明らかにするためであり、それにより後に人が救われるためである。これは贖いよりももっと深い働きである。恵みの時代の恵みは、人が楽しむのに十分であった。すでにこの恵みを経験したので、これ以上人はそれを楽しむことはない。そのような働きは時代遅れであり、もはやなされることはない。今、人は言葉の裁きを通して救われる。裁かれ、刑罰を受け、精錬されて、人の性質は変えられる。これはわたしが話した言葉の故ではないのか。 「受肉の奥義(4)」より

イエスが現れたとき、イエスは神の役割も実行した。そして、いくつかの言葉を話した。しかし、イエスが成し遂げた主な働きは何だったろうか。イエスが主として成し遂げたことは、磔の働きであった。イエスは、磔の働きを完成し全人類を贖うために罪深い肉の似姿になった。そしてイエスが罪の贖いの供え物となったのは、全人類の罪のためであった。これが、イエスが成し遂げた主な働きであった。最終的に、イエスは、後から来るひとたちを導くために、十字架の道を与えた。イエスが現れたとき、それは主として、贖いの働きを完了するためであった。イエスは全人類を罪から救い、天の国の福音を人にもたらし、そして天の国をもたらした。その結果、やってきた人たちは皆こう言った。「我々は十字架の道を歩くべきだ。そして十字架のために、我々自身を犠牲にすべきだ」。もちろん、最初イエスは、人に悔い改めさせ罪を告白させるために、他の働きもいくつか行い、多少の言葉も語った。しかし、彼の本来の役割はやはり、磔であった。そしてイエスが道を説きながら費やしたあの3年半は、その後にやってきた磔に向けての期間であった。イエスが祈った何回かは磔のためでもあった。イエスが暮らした一人の普通の人としての人生や、地上で彼が生きた33年半は、主として、磔という働きを完成するためであった。そしてイエスに力を与え、イエスをこの働きに取り組むことができるようにした。その結果として神はイエスに磔という働きを託した。今日、肉となった神は、どのような働きを成し遂げるだろうか。今日、神は主として、「言葉が肉において現れる」という働きを完成するために、人を完全にすることに言葉を用いるために、そして人が言葉による取り扱いと精錬を受け入れるよう、肉になった。神の言葉の中にあって、あなたは神によって、施され、いのちを得る。神の言葉の中で、あなたは神の働きと行いを知る。神はあなたを罰し精錬するために言葉を用いる。したがって、もしあなたが苦難に会うなら、それは神の言葉によるものでもある。今日、神は事実を用いるのでなく言葉を用いて、働きをする。神の言葉があなたに届いてはじめて、聖霊はあなたの中で働きをすることができ、あなたに苦痛を感じさせたり優しさを感じさせたりすることができる。神の言葉だけが、あなたを真実に至らせることができ、神の言葉だけが、あなたを完全にすることができる。したがって、終わりの日に神によってなされる働きの主体は、すべての人を完全にし、そして人を導くために自身の言葉を用いることであることを、せめてあなたは理解しなければならない。神はその働きのすべてを、言葉を通じて行う。神はあなたを罰するために事実を用いない。 「すべてが神の言葉によって達成される」より

神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである。 「神の働きを経験する者のみが真に神を信じる」より

今日わたしが話しているのは、人々の罪と不義を裁くためである。それは人々の反逆性を呪うためである。人間の不正さと虚偽、言動など、神の心に則していない物事すべてが裁きを受け、人間の反逆性は罪であると咎められる。神は裁きの原則に従って語り、人間の不義を裁き、反逆性を呪い、醜悪な顔を全て晒すことにより神の義なる性質を現す。 「征服の働きの第二段階はどのように実を結ぶか」より

神には人間を完全にする手段が多数ある。神はありとあらゆる環境を用いて人間の堕落した性質を取り扱い、様々な物事を用いて人間を暴き出す。神は、ある点に関しては人間を取り扱い、別の点に関しては人間を暴き、また別の点に関しては人間を明らかにし、人間の心の奥にある「秘密」を掘り出して明示し、人間にその数々の状態を明らかにすることにより本性を示す。神が実践的であることを人間が知ることが出来るように、神は暴き、取り扱い、精錬、刑罰など、様々な手段で人間を完全にする。 「実践を重視する者だけが完全にされることができる」より

神は何を通じて人を完全にするのであろうか。それは、義という神の性質によるのである。神の性質は主として義、怒り、威厳、裁き、呪いであり、神は主に裁きを通じて人を完全にする。一部の人々は理解できず、なぜ神は裁きと呪いによってしか人を完全にできないのかと問う。神が人を呪ったら、人は死ぬのではないか。神が人を裁いたら、人は断罪されるのではないか。それにもかかわらず、人はどうやって完全になれるのであろうか。神の働きを理解しない人々はそう話すのである。神が呪うのは人間の不従順であり、神が裁くのは人間の罪である。神の言葉は厳しく、少しの気遣いもなく、人の内にあるあらゆるものを明らかにし、そうした厳しい言葉を通じて人の内にある本質を顕わにするが、神はその裁きを通じて人に肉体の本質についての深遠な認識を授け、それにより人は神の前に従順を示すのである。人の肉は罪から成り、サタンによるものであり、不従順であり、神の刑罰の対象である──であるから、人に自分を理解させるためには、神の裁きの言葉が人にもたらされねばならず、あらゆる精錬が行われねばならない。それにより初めて神の働きは成果を生むのである。 「辛い試練を経験して初めて、神の素晴らしさを知ることができる」より

人の目から見れば、救いは神の愛であり、神の愛は刑罰、裁き、呪いであるはずがない。救いは慈愛、憐れみ、さらには、慰めの言葉を含んでいなければならず、神によって授けられる無限の祝福を含んでいなければならない。神が人を救う時は、神は彼らに触れ、神の祝福と恵みを通して彼らの心を神に委ねさせることによって救うのだと人々は信じている。すなわち、神は人に触れる時人を救うのだ。このような救いは取引によって行われる救いである。神が彼らに百倍ものもを授ける時のみ、人は神の名の下に来て、神のために尽くそうと努力し、神に栄光をもたらす。これは人類のための神の心ではない。神は堕落した人類を救うために地上で働きに来た──このことにうそはない。そうでなければ、神は直接その業を行うために来ることは絶対にないだろう。昔、神の救いの手段は最大限の慈愛と憐れみを見せることだった。神は全人類と交換するために自らのすべてをサタンに与えたほどであった。今日は昔とはまったく違っている。今日、あなたたちの救いは終わりの日に、各人を種類によって分類する期間に生じる。あなたたちの救いの手段は慈愛や憐れみではなく、人がより完全に救われるための刑罰と裁きである。従って、あなたたちが受けるすべては刑罰、裁き、容赦のない鞭であるが、この無情な鞭打ちの中に罰はほんの少しもないことを知りなさい。わたしの言葉がどんなに辛辣であっても、あなたたちに降りかかるのはあなたたちにはまったく無情だと思われるほんの数語だけであり、わたしの怒りがどんなに大きくても、あなたたちに注がれるのは教えの言葉であることを知りなさい。わたしはあなたたちに危害を加えるつもりはないし、あなたたちを殺すつもりもない。これはすべて事実ではないのか?今日、義の裁きであろうと、無情な鍛錬や刑罰であろうと、すべては救いのためであることを知りなさい。今日種類に応じた各人の分類があろうと、人を分類する範疇が露わにされようと、神の発する言葉と業のすべては本当に神を愛する者たちを救うためである。義の裁きは人を清めるためであり、無情な鍛錬は人を清めるため、厳しい言葉、あるいは懲らしめはすべて人を純化するため、救うためである。従って、今日の救いの方法は過去のものとは違う。今日、義の裁きはあなたたちを救い、種類に応じてあなたたち各々を分類するためのよい道具であり、無情な刑罰はあなたたちに最高の救いをもたらす──この刑罰と裁きに直面する時あなたたちは何と言わなければならないだろうか。あなたたちは初めから終わりまで救いを享受しなかっただろうか……

わたしの言葉は厳しいかもしれないが、すべては人を救うために語られているのであり、わたしは言葉を語っているだけで、人の肉を罰しているのではない。これらの言葉は、人が光の中で生きるように促し、人に光が存在すること、また、その光は貴重であることを知らしめる。さらにはこれらの言葉が人にとっていかに有益であるか、そして神は救いであることを知らしめる。わたしは刑罰と裁きの言葉を数多く語ったが、それらのことは実際あなたたちに対して行われていない。わたしはわたしの働きを行うために、わたしの言葉を話すために来た。わたしの言葉は厳しいかもしれないが、あなたたちの堕落と反抗を裁くために語られているのだ。わたしがこれを行う目的は依然として人をサタンの支配下から救うこと、人を救うためにわたしの言葉を使うことである。わたしの目的はわたしの言葉で人を傷つけることではない。わたしの言葉が厳しいのは、わたしの働きから成果が獲得されるためである。このように働くことを通してのみ、人は自分自身を知ることができ、反抗的性質を断つことができる。 「あなたたちは地位の恩恵は脇に置き、 人の救いに関する神の心を理解するべきである」より

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