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終わりの日の神の裁きの働きだけが、人類を完全に救うことができる働きであるのはなぜですか。

参考聖書箇所

「大声で言った、『神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め』。」(ヨハネの黙示録 14:7)

「わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書 12:48)

「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙 4:17)

「収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』。」(マタイによる福音書 13:30)

「また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。(マタイによる福音書 3:12)

「世の終りにも、そのとおりになるであろう。すなわち、御使たちがきて、義人のうちから悪人をえり分け、そして炉の火に投げこむであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。」(マタイによる福音書 13:49-50)

「『不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ』。『見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。』」(ヨハネの黙示録 22:11-12)

「いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。」(ヨハネの黙示録 22:14)

関連する神の言葉

イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。 「神の働きを経験する者のみが真に神を信じる」より

最初の受肉は人を罪から贖う、つまりイエスの肉体を通して人を罪から贖うためであった。つまり、イエスは十字架から人を救ったが、堕落したサタン的な性質は依然として人の中に留まった。二番目の受肉はもはや罪のためのいけにえとしての役割ではなく、罪から贖われた人たちを完全に救うことであった。それにより、赦されたものが罪から解放され、完全に清められ、性質が変えられ、それによりサタンの暗闇の影響を打ち破り、神の玉座の前に戻ってくるためである。このようにしてのみ、人は完全に清められる。神は律法の時代が終ってから、恵みの時代に救いの働きを開始した。これは神が人間の不従順に対する裁きと刑罰の働きを終えて人類を全く清める終わりの日まで続く。その時が来てはじめて、神は救いの働きを終え、安息に入る。 「受肉の奥義(4)」より

人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。イエスがその働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識は依然として漠然として不明瞭だった。人は昔からイエスをダビデの子と信じ、偉大な預言者で人の罪を贖う情け深い主であると宣言した。信仰によって、イエスの衣の端を触っただけで癒された人々もいれば、盲人たちが見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的な性質が人に深く根づいているのが発見できず、それを捨て去る方法も知らなかった。人は肉による平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、病人の癒しなど多くの恵みを受けた。残りは人による良い行いや外見上の信心深さであった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまず良い信者と思われたのである。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされた。それは彼らが救われたことを意味する。しかし、彼らはその生涯において、いのちの道を全く理解していなかった。彼らはただ罪を犯しては告白し、それを常に繰り返すのみで、性質が変えられる道へ進んでいる訳ではなかった。これが恵みの時代の人間の状態であった。人は完全な救いを得たのであろうか。いや、得なかった。だから、その段階の働きが終わってからも、依然として裁きと刑罰の働きが残っている。この段階は人に従う道を与えるように、言葉を通して人を清くする。もし悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。というのは、人の罪深い本性が捨てられることもないだろうし、人は罪が赦されるというところで行き詰まるだろうからである。罪のためのいけにえを通して、人は罪を赦されてきた。というのは十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に留まっており、人は依然として罪を犯し、神を拒むことができ、よって神はまだ人類を得ていない。だからこの段階の働きで神は言葉を用いて人の堕落した性質を示し、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である。だから、終わりの日の受肉は神の受肉の意義を完成し、人の救いのための神の経営計画を完全に終了したのである。 「受肉の奥義(4)」より

終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人を教え、人の本質を明示し、その言葉や行為を解剖する。こうした言葉には、人の本分、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきか、そして神の知恵と性質など、さまざまな真理が含まれる。これらの言葉は、みな人の本質とその堕落した性質に焦点を当てている。とりわけ、いかに人が神を拒絶するかを明らかにする言葉は、人がサタンの化身であり、神に敵対する力であることを語っている。神が裁きの働きを行う際、神はほんの数語で人の本性を明示するのではなく、長期にわたって暴き、取り扱い、刈り込みをする。そうした暴き、取り扱い、刈り込みは、通常の言葉に置きかえることはできず、人が持つことなどない真理でしか置きかえられない。そうした働きのしかたのみが裁きとみなされる。そうした裁きを通じてのみ、人は説得され、神への服従に完全に納得し、神の真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすものは、人による神の真の顔の理解と、自らの背きに対する真の理解である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、それまで人には理解できなかった奥義について大いに理解できるようになる。また、人が自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し理解し、人の醜さを発見するようになる。これらの効果は全て、裁きの働きによりもたらされる。というのも、裁きの働きの本質は、実際に神を信じる全ての者に、神の真理、道、いのちを開く働きだからだ。これが、神がなす裁きの働きである。 「キリストは、真理を以て裁きの働きを行う」より

時代を終わらせる神の最後の働きでは、神の性質は刑罰と裁きであり、それが不義なるもの全てを現わし、すべての人々を公に裁き、神を真に愛する人たちを完全にする。このような性質のみが時代を終わらせることができる。終わりの日はすでに来ている。あらゆるものは種類によって区分され、性質に従って種類分けされる。この時に神は人の最後と終着点を明かにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、人の不従順と不義を明かす方法はないであろう。刑罰と裁きを通してのみ、あらゆるものの終局を明かすことができる。人は罰せられ裁かれて初めて本当の姿を示す。悪は悪に、善は善に、人は種類によって区分される。刑罰と裁きを通して、すべてのものの最後が明かされ、悪人は罰せられ、善人は褒美を得るであろう。そして、すべての人たちは神の支配の下に従属することになるであろう。すべての働きは義なる刑罰と裁きを通して達成されなければならない。 「神の働きのビジョン(3)」より

終わりの日の神の裁き、刑罰の働き、すなわち、最後の清めの働きの中でゆるがず耐え抜ける人たちが、神と共に最後の安息の中に入る人たちである。したがって、安息に入る人はみな、神の最後の清めの働きを経て初めて、サタンの支配から振りほどかれ、神によって得られるだろう。最終的に神によって得られたこのような人々が最終的な安息へと入るのである。刑罰や裁きという神の働きの実質は、人類を清めることであり、それは、最終的な安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないか、あるいは安息の中に入ることができない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである。清めの働きこそが人類の不義を清め、刑罰と裁きの働きこそが人類の中のそれらの不従順なものを全部さらけ出すのである。それによって、救うことのできる人と救うことのできない人とが識別され、生き残ることのできる人と生き残ることのできない人とが区別されるようになる。神の働きが終わる時、生き残ることのできる人は、清められ、人類のより高い領域の中に入って、地上でのよりすばらしい第2の人生を享受する。すなわち、彼らは人類の安息の日に入って神と共に生活する。生き残ることのできない人が刑罰や裁きを受けた後、彼らの正体が全て露呈される。それから彼らはみな滅ぼされ、サタンと同じように、もう地上で生きることができなくなる。未来の人類はもうこのような人々を含まない。このような人々は究極の安息の地に入る資格がなく、神と人が共有する安息の日に入る資格もない。なぜなら、彼らは懲らしめの対象であり、悪者、義なる人ではないからである。……悪を罰し、善に報いるという神の最終的な働きは、全て全人類を完全に清めるために行われる。そうすることによって、完全に清くなった人類を永遠の安息に導き入れることができる。神のこの段階の働きは最も重要な働きであり、神の経営の働き全体の最後の段階である。もし神が悪者たちを全て滅ぼさないで、彼らを残しておけば、全人類はやはり安息の中に入ることができず、神も全人類をよりよい領域に導き入れることができない。このような働きでは完了することはできない。神が自身の働きを終える時、全人類は完全に聖いものとなる。このようになってはじめて、神は安らかに安息の中で生活することができる。 「神と人は共に安息に入る」より

神と人が安息に入った後、サタンはもはや存在せず、サタン同様、邪悪な者も、もはや存在しない。神と人が安息に入る前に、かつて地上で神を迫害したことのある邪悪な者たち、地上で神に不従順だった敵たちはすでに滅ぼされている。彼らは終わりの日の大きな災難によって滅ぼされている。そのような邪悪な者たちが徹底的に滅ぼされた後、地上でサタンの妨害を見ることはなくなる。人は完全な救いを与えられ、そうして初めて、神の働きが完全に終わる。これは神と人が安息に入る前提である。 「神と人は共に安息に入る」より

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