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終わりの日のキリストへの証し

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質問13:主イエスが「すべてが終った」(ヨハネによる福音書19:30)と十字架上でおっしゃったのは、神の救いの働きがすでに完全に終わったことの証であると宗教界のほとんどの人々は信じています。しかし、真理を表し、完全に人類を救うために、神の家から始まる裁きの働きを行うために主が受肉して再来なさったとあなたがたは証を立てています。では人類を救う神の働きを正確にはどのように理解するべきなのでしょうか。真理のこの側面について、よく分かりませんので、これについて話してください。

回答

十字架で「すべてが終わった」(ヨハネによる福音書9:30)と主が言われたのは、どういう意味でしょうか。贖いの働きが終わったのか。それとも、人類を救う働きが終わったのか。当時の人に理解できたでしょうか。誰にも理解できなかったでしょう。主イエスは「すべてが終わった」と言っただけで、人類救済の働きが終わったとは言ってません。一体どういう意味で主が「すべてが終わった」と言ったか、人間には分かりません。ですから、主の言葉や「すべてが終わった」の意味を自分勝手に解釈し説明してはいけません。主の言葉に人間の考えをやみくもに加えることになります。考えてみてください。人類救済の働きについて「すべてが終わった」と主イエスが言ったのだとしたら、主はなぜこう預言したのでしょう。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12-13)ヨハネによる福音書12章47、48節ではこう言われました。「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」主イエスは再臨し、真理を表し、裁きの働きを明言しています。他の預言にもあります。「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙 4:17)牧師や長老が言うように、主イエスが磔にされたことで人類救済が終わったのなら、主イエスの預言「けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。」これはどう成就するのですか?真理を示し裁きの働きをするために、主が戻るという預言は成就しないのでは?ですから、牧師たちの言うことは主イエスの言葉や神の働きに明らかにそぐわないのです。主イエスがされたのは贖いの働きだけです。主イエスを受け入れて罪を告白すれば、赦してもらえます。そして主にお祈りができて、恵みを受けられるのです。たとえ罪を犯しても、律法に裁かれません。これこそ主イエスの贖いの働きの成果です。そして本当の意味での「信仰による救い」です。主イエスの働きが果たしたことを考えると、主イエスは贖いの働きをしただけだと分かります。終わりの日に、人を裁き清め完全にする働きではありません。主を信仰すれば罪は赦されますが、大きな罪を犯さず、良き振る舞いをしても、罪と無縁ではなく、純粋な魂になっていませんね?頻繁に嘘をつき、罪を犯していませんか?欲に駆られて行動していませんか?人をねたみ嫌っていませんか?傲慢で卑劣な心を持っていませんか?世俗的な流行を追い富を求め、名声を得ようとしていませんか?中国共産党政府に逮捕されると、神を裏切り、神を否定する、念書を書く人さえ存在します。特に終わりの日の全能神の真理と裁きの働きについては、思い込みと想像だけで神の働きを判断し非難していませんか?つまり、信仰では罪を赦されるだけで、私たちの持つサタンの本性と性質は変わらないのです。そのせいで罪を犯し神に逆らうのです。この罪深い本性が消えなければ、神に逆らい、神を敵だと考えてしまいます。そのような人間は天国に入る資格がないのでは?主イエスの「すべてが終わった」は、神の贖いの働きが終わったということを意味してるに過ぎず、人類救済の働きが終わったという意味ではありません。終わりの日に受肉された全能神は真理を示し、裁きの働きをしに来ました。人々を完全に清め救い罪を犯す根源を取り除き、罪から解放され清められた人々を神の国に招くのです。全能神の言葉を読んで、もっと理解を深めましょう。

全能神は言われます。「あなた方のように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む――あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである。」(『言葉は肉において現れる)の「呼び名と身分について」より)

あなたはわたしがどのような人間を求めているかを知らなければならない。不純な人間は神の国に入ることを許されないし、また不純な人間が聖地を汚すことも許されない。あなたがたとえどれほど長くまたどれほど多くの働きを行ってきたとしても、最後のときになって未だ甚だしく汚れていれば、わたしの国に入ることは天の律法が許さないのである。世の初めから今日まで、人がいかに取り入ろうとも、人がわたしの国に入るのにわたしが便宜を図ったことはない。これは天の掟であり、誰にも破ることは許されない。」(『言葉は肉において現れる)の「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」より)

イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。」(『言葉は肉において現れる)の「序文」より)

人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、清くされることができる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言った方が適切であろう。」(『言葉は肉において現れる)の「受肉の奥義(4)」より)

「終わりの日の働きとは、すべての人をその性質に応じて区分し、神の経営(救いの)計画を締めくくることである。時が近づき、神の日が来たからである。神の国に入る人すべて、すなわち神に最後の最後まで忠実な人すべてを、神は神自身の時代に連れて行く。しかし、神自身の時代が来る前は、神の働きは人間の行いを観察したり、人間の生活について調べたりすることではなく、人間の不服従を裁くことである。神の玉座の前に来る人すべてを、神は清めなければならないからである。今日まで神の足跡に従ってきた人はすべて神の玉座の前に来る人であり、これゆえに、最終段階の神の働きを受け入れる人の一人ひとりは神の清めの対象である。言い換えれば、最終段階における神の働きを受け入れる人は誰もが、神の裁きの対象なのである。」(『言葉は肉において現れる)の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より)

「終わりの日はすでに来ている。あらゆるものは種類によって区分され、性質に従って種類分けされる。この時に神は人の最後と終着点を明かにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、人の不従順と不義を明かす方法はないであろう。刑罰と裁きを通してのみ、あらゆるものの終局を明かすことができる。人は罰せられ裁かれて初めて本当の姿を示す。悪は悪に、善は善に、人は種類によって区分される。刑罰と裁きを通して、すべてのものの最後が明かされ、悪人は罰せられ、善人は褒美を得るであろう。そして、すべての人たちは神の支配の下に従属することになるであろう。すべての働きは義なる刑罰と裁きを通して達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順はあまりにも深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きであり、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質のみが人を完全に変えて全き者とすることができる。この性質のみが悪を暴露し、よってすべての不義なる人々を厳しく罰することができる。」(『言葉は肉において現れる)の「神の働きのビジョン(3)」より)

「刑罰や裁きという神の働きの実質は、人類を清めることであり、それは、最終的な安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないか、あるいは安息の中に入ることができない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである。清めの働きこそが人類の不義を清め、刑罰と裁きの働きこそが人類の中のそれらの不従順なものを全部さらけ出すのである。それによって、救うことのできる人と救うことのできない人とが識別され、生き残ることのできる人と生き残ることのできない人とが区別されるようになる。神の働きが終わる時、生き残ることのできる人は、清められ、人類のより高い領域の中に入って、地上でのよりすばらしい第2の人生を享受する。すなわち、彼らは人類の安息の日に入って神と共に生活する。生き残ることのできない人が刑罰や裁きを受けた後、彼らの正体が全て露呈される。それから彼らはみな滅ぼされ、サタンと同じように、もう地上で生きることができなくなる。未来の人類はもうこのような人々を含まない。このような人々は究極の安息の地に入る資格がなく、神と人が共有する安息の日に入る資格もない。なぜなら、彼らは懲らしめの対象であり、悪者、義なる人ではないからである。…悪を罰し、善に報いるという神の最終的な働きは、全て全人類を完全に清めるために行われる。そうすることによって、完全に清くなった人類を永遠の安息に導き入れることができる。神のこの段階の働きは最も重要な働きであり、神の経営の働き全体の最後の段階である。」(『言葉は肉において現れる)の「神と人は共に安息に入る」より)

終わりの日の神の裁きで得られる結果を全能神は明らかにしています。終わりの日における神の裁きの働きは人類を清め救うためなのです。主イエスの贖いの働きが終わりの日の神の裁きへの道を開き、全能神が主イエスの贖いの働きをもとに、裁きと清めをなされ、人類を罪から救い、神の御国へ招くのです。神の働きは実践的でしょう?主イエスの贖いだけ受け入れて、終わりの日の神の裁きを受け入れなければ、神の御国へ入る資格はありませんね?このように、神の働きを理解することがとても重要なのです。宗教界の人々はいまだに信仰のみによって救われると信じ、主を信じれば罪を赦され問題が解決すると信じているのです。主の憐れみと愛によって、どんな罪を犯しても赦しを得られ、主の再臨で天国に招かれると思っています。だから、終わりの日の全能神の裁きの働きを拒むのですが、どうなるでしょう?神の働きを理解しているでしょうか?神の義なる性質はどうです?神に反抗して逆らうサタンの輩を神が御国に入れるのでしょうか?あり得ません。このような者が神の御国に入ると、どうなるでしょうか?例を挙げましょう。ヤーウェ神を信じるイスラエル人が神の御国に入ると、どうなると思います?彼らは神の受肉である主イエスを受け入れず、その上あらん限り非難し、主を十字架に磔にしました。この神に逆らうサタンの輩が神の御国に入れば、神に逆らい続けると思いませんか?彼らは反乱を起こし、主の玉座を奪おうとするのでは?主イエスはなぜユダヤの会堂で説教しなかったのでしょう?それはユダヤ教の祭司長や律法学者、パリサイ人が悪そのもので、何をするかわからなかったからです。主イエスは彼らに囚われたあと、鞭で打たれ、ののしられ、つばを吐きかけられました。そしてローマ政府に引き渡され磔にされました。主は彼らがヘビの同族だと知っていたので、会堂へ行きませんでした。主は終わりの日に戻られたのに、なぜ教会で説教しないのでしょう?それは教会の指導者達が極悪非道で、受肉した全能神が教会へ来ようものなら、警察に通報するからです。間違いなく全能神を共産党政府に引き渡そうとするでしょう。そんな中で、公然と全能神の証しができるでしょうか?教会で全能神の証しをすれば、非難され侮辱され、きっと公安局に引き渡されてしまうでしょう。つまり、現在の教会は昔のユダヤの会堂と同じで、神に逆らい、神を拒み非難する場所なのです。そう思いませんか?これは人類がいかに堕落しているかを示しています。みんな真理に飽きて忌み嫌い、神の再臨を拒み、サタンのように神と対立するのです。もし終わりの日に神が人を裁き清めるために受肉しなかったなら、人類は神に逆らった罪で滅ぼされていたでしょう。

『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より

さて、主イエスが十字架の上で言われた最後の言葉は「すべてが終わった」(ヨハネによる福音書 19:30)だったと指摘する人がいます。そして続けてこう言います。「主イエスは人のために罪の生け贄としてお仕えになったとき、神様の救いの働きを成し遂げられた。私たちは主イエスを信じているから、もう罪を赦されている。それに信仰だけを通じて義と認められたのだから、天国へ入ることができる。主が引き上げてくださるのを待つだけでいい」。あるいはこう言います。「すべての準備は整った。あと私たちに必要なのは引き上げられることだけだ」。こうした発言は真実として証明されていますか。いいえ、証明されていません。私たちが証明できるのは罪が赦されたということだけです。そうですね。自分の罪が赦されたとどうして確信できますか。どんな罪を犯したにせよ、祈り、自分の罪を認めさえすればいいのです。そうすれば喜びと平和を感じ、霊は罪の束縛から解放されます。人は罪から自由になると、完全に解放されたと感じます。それは真実です。だから、罪の生け贄は完全に真実であり、主イエスの信者全員が経験を通じて確かめられると言えます。しかし主イエスは、「主イエスを信じることで、人は救いを獲得して罪から完全に自由になる。主イエスを信じれば、神様から褒められ、天国に入る」とはおっしゃいませんでした。主イエスはそうはおっしゃいませんでしたし、その証拠はありません。証拠がないのはなぜですか。人の罪は赦されましたが、内なるサタン的な性質と罪深い本性も赦されましたか。赦されていません。主イエスはこれまでに「いったん罪を赦されれば天国に入れる」とおっしゃいましたか。「私を信じるだけでよい。そうすれば天国にあなたの居場所がある」とおっしゃいましたか。主はそのようなことはおっしゃいませんでした。主イエスは何とおっしゃいましたか。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書 7:21)では、「天にいますわが父の御旨を行う」とは何を意味しますか。それは、神様の御旨を行ない、神様の道に従い、真理の道すなわち神様の御言葉を実行に移さなければならないことを意味します。人は神様がお求めになることは何でも常に行なわなければならず、またその人が行ない、守り、忠実に従うよう神様が要求なさることはどれも従わなければなりません。そうして初めて天国に入ることができます。しかし恵みの時代において、どれほど多くの人が神様の要求を満たせましたか。一人も満たせませんでした。したがって、恵みの時代の働きは贖いの働きの一段階であったと言えます。主イエスはお戻りになるとき、神の御前へ赴く人全員をお清めになるために、裁きと刑罰の働きの一段階をなさると聖書で預言されています。言い換えれば、神様は終わりの日に、清めの働きの一段階、種類ごとにすべての人を選り分ける働きをお始めになり、その後その時代をお閉じになります。そして毒麦から小麦を、山羊から羊を、愚かな乙女から賢い乙女を、悪しきしもべから良きしもべを選り分けるという、主イエスが預言されたことはどれも現実になります。聖書で預言されているように、終わりの日のあいだ、神様は人を裁いて清める働きの一段階をなさいます。例を挙げましょう。「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙 4:17)「あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。」(ペテロの第一の手紙 1:5)「見よ、わたしは盗人のように来る。」(ヨハネの黙示録 16:15)「もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。」(ヨハネの黙示録 3:3)「勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。」(ヨハネの黙示録 3:12)これらの預言はすべて、主がお戻りになるときに行なわれる働きを指しています。律法の時代から、時代を終わらせるために主がお戻りになるときまで、三段階の働きがあることをそれは証明しています。そのことは真実であり、聖書の預言の中に見ることができます。恵みの時代の働きは贖いの働きであり、人類の罪深い本性を消す清めの働きではもちろんありませんでした。主イエスの信者の中に罪深い本性が完全に消された者はおらず、赦されたあとで再び罪を犯さなかった者、性質の完全な変容を成し遂げた者、真に神様を知る者もいまだに一人としていません。これは事実です。恵みの時代のあいだ、人類は二千年にわたって神様を信じましたが、五つの根本的な問題が解消されないまま残りました。第一に、人類の罪深いサタン的な本性の問題が解消されませんでした。第二に、人類がサタン的な性質を頻繁に表わすという問題が解消されないまま残りました。第三に、各人のいのちの性質の変容という問題が解消されませんでした。第四に、人類はいかにして神様を知り神様に従うべきかという問題が完全には解消されませんでした。第五に、人類はいかにして清めを成し遂げられるかという問題が完全には解消されませんでした。これら五つの根本的な問題は解消されないまま残り、恵みの時代における神様の働きが贖いの働きの一段階に過ぎず、人類の救いの働きにおける最終段階ではなかったことを証明しています。恵みの時代の働きは、終わりの日における救いの働きのために道をならし、基礎を建てただけなのです。

兄弟の交わりより

救われるとは具体的にどういう意味ですか。宗教界の人は、十字架上の主イエスの最後の御言葉が「すべてが終った」(ヨハネによる福音書 19:30)であったから、主イエスを信仰する限り、罪は許され、それは救われたということだと信じます。宗教界の人は神様の御働きを知らないため、神様が言われたことを誤解しています。主イエスが「すべてが終った」とおっしゃったとき、何に言及なさっていたのでしょうか。主イエスは神様の贖いの御働きが完了したことに言及なさっていたのであり、神様の経営(救いの)計画を完了したことに言及なさっていたのではありません。したがって、神様の御働きを知らない人が神様のおっしゃったことを最も誤解し、神様の御働きを判断しがちであるというのは事実です。では、つまるところ、救済を得るとは何のことですか。罪の赦しが真の救済ですか。違います。罪の赦しは神様の終わりの日の御働きの基礎を築くに過ぎません。基盤を打ち立てるのです。神様が人類をお救いになる御働きとは、現実には終わりの日の御働きのことで、恵みの時代の罪のいけにえの基盤の上に築かれます。罪のいけにえがあったからこそ人間の罪が赦され、人類が神様の御前に来て神様の御働きを受ける資格があるのです。終わりの日の裁きと刑罰、試練と精錬をとおしてのみ人間は本当に救われ、サタンの影響やサタン的な本性の支配から自由になります。終わりの日の御働きのみがサタンにより堕落させられた人の性質を変えることができ、サタンの影響から人を救うことができ、人を完全に神様の方に立ち返らせるという目標を達成することができます。したがって、神様への信仰において、人が神様の終わりの日の御働きを経験しないならば、完全に救済されることはできません。…

神様は聖なる、義なる方です。人の罪が赦された後でも、人間が罪を犯すことの根源、つまり、人のサタン的本性はやはり取り除かれていません。人がいつもどおりに振る舞い、神様に抵抗し、神様を裏切り続けるならば、これは神様の性質に背くことになりませんか。神様に抵抗し、神様を裏切ることができる人類を神様が神の国に引き上げでくださるなら、これは神様が御自身を欺かれたことを示していませんか。この堕落した人類は、未だに神様に抵抗し、キリストを再び十字架にかけることができます。このような人類が救われたならば、神様の聖さや義を説明する術がありません。それは意味を成しません。どうして神様に抵抗する人類が存在することを神様の国が許容できるのですか。神様の性質は人の侮辱を容赦しないため、これは不可能です。「罪のいけにえを受け入れた人が救われ、その人は神の国に入ることができる」と言うことができないのはこのためです。…

兄弟の交わりより

前へ:質問12:主は再来し、終わりの日に神の家で始まる神の裁きの働きを行っておられるとあなたがたは証を立てています。これはヨハネの黙示録にある大きな白い玉座の裁きとは異なるようです。宗教界のほとんどの人が信じているのは、大きな白い玉座の裁きは悪魔サタンに属する不信仰者を対象としているということです。主が来られると信者は天に引き上げられ、そして不信仰者を滅ぼそうと神は災をもたらされる。これが大きな白い玉座の前の裁きです。あなたがたは終わりの日の神の裁きの始まりを証ししていますが、不信仰者を滅ぼすために神が災いを起こすのをまだ私たちは見ていません。それなのに、それがどうして大きな白い玉座の裁きでありえるのですか。

次へ:質問14:「なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」(ローマ人への手紙10:10)と聖書にあります。主イエスが私たちの罪を赦し、私たちを信仰によって義なるものにしてくださったと私たちは信じています。さらに、一度救われれば永遠に救われ、主が再来なさると私たちはすぐに携挙され天国に入ると私たちは信じています。ではなぜ救われ天国に導かれる前に終わりの日の神の裁きの働きを受け入れなければならないとあなたがたは証を立てているのですか。

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